2012年12月17日月曜日

『悪の教典』鑑賞。




伊藤英明 主演作。
2012年11月10日 公開。

上映後まもなく、観客席が、ざわめきどよむ映画を久しぶりに観た。
賛否両論。侃々諤々。多くは否定的。
でも私個人的には痛快のこころ。


■人間の本質を象徴する蓮見

殺戮シーンは、その行為自体が惨たらしいものであるからして、人によっては当然、吐き気をもよおし、不快感を覚えるであろう。

しかしながらどうであろう。「殺戮」を、人間が持つ「本質」「性(さが)」と捉えたならば、その感覚は一変する。

人間は、理性と道徳を抑止力に、人命尊重を重んじ、人道主義を騙っているが、一皮むけば、結局のところ、「捕食者」だ。誰しも毎日、何らかの「命」を犠牲に、自らの命を繋いでいる。命の尊さを説く人間であれ、だ。

つまり、殺戮は、捕食者たる人間にとって、「快楽を満たす行為」以前に、「生存行為」そのものなのだ。そこに意味も主張もない。ただ、生きるために、殺す。

更に言及すれば、捕食者たる人間は、己の非力さを、武器や兵器によって補完することで、地球上のあらゆる捕食者の頂点に立とうとする、極めて身勝手で自己中心的で、残忍で非道な生き物であるに他ならない。

であるならば、「生存行為としての殺戮」と「自己中心的思想」という、人間の「性」を隠ぺいすることなく、寧ろ、「我が意のまま」に世界を操り、己が「殺戮の欲動」を爆発させる蓮見の姿は、人道主義をまとう前の、「裸」のままの、「人間本来の姿」と言えるのではなかろうか。
裸のまま。それは正に、蓮見が唯一、「本来の自分」でいられる「聖域」で過ごしていた姿、そのものである。

■憧憬の対象としての蓮見

蓮見ほどではないにしろ、人間は誰しも、社会規範から逸脱するような、後ろ暗い「闇」を内包している。多くは、その闇を押し殺して生きる訳だが、蓮見の場合、模範的で良識的で、好感度抜群の好青年「ハスミン」を隠れ蓑に、己の本能を解放し、本能の赴くままに生を謳歌している。

「闇」に抑圧を強いることを自明の理とする多くの人間は、蓮見の、己に正直な生き方に、ある種の突き抜けた爽快感を感じるのではなかろうか。だからだろうか。解き放たれ、自由に羽ばたく蓮見を見ていると、思わず「その物陰に生徒が!」と、蓮見に加勢したくなってしまう。

そんな、己の本能を解放した蓮見の瞳の、なんと穢れなきことか。澄んだことか。無垢でピュアで無邪気なことか。しかしながら、その「無邪気」な瞳に映るは、獲物であり、血の海であり、鮮血に染まる両の手、という「陰惨の極みたる世界」である。

残忍で不気味ながら、その一方で、艶めかしい美しさと、一種のヒーロー然としたオーラを放ち、観客の目を惹きつけてやまないところ、蓮見役の伊藤英明氏の演技は凄い。

■観客を「正と邪」「善と悪」のカオスへと誘う蓮見

獲物を見定める姿は、まさに鴉そのもの
最後。生き残った生徒によって、蓮見の「真の姿」が白日の元に曝される。そのことに安堵する一方、「全生徒の粛清」という蓮見の目的が成就されなかったことを口惜しく思ってしまう。そんな、清濁入り乱れた、己の倫理観に苦悶してしまったのは言うまでもない。
これに関しては、監督および出演者が的確な助言をしてくれている。その一つを此処に挙げる。


人はどうあるべきかとか、サイコパスと普通の境界線はどこかとか、いろいろ深く考え始めると、むしろ良くない方向に向かっていっちゃうと思うんです。この映画の根本は、やはりエンターテインメントですから。観たあとに訳のわからない感情がわき上がってきて、なぜか笑いながらみんなで話せてしまう。そういうカオスな状態を純粋に楽しんでしまうのが、この作品との正しい向きあい方なんじゃないかと思います。(『悪の教典』パンフレットより山田孝之氏のコメント)


サスマタで生徒のパンティをナイスキャッチ。
パンティの残り香で生徒を識別。 抱腹絶倒、必見のワンシーン。
山田孝之氏の絶妙なる演技に「清くない(笑)一票」を!
本作は痛快なるエンタテインメントであると同時に、人間の本質を鋭利にえぐり出した作品だ。鑑賞後も、その余韻がやむことはなく、私はひとり、どっしりとした満足感に浸った。

***

上映後、周囲の観客の方々が、口々に不快感を露わにしていたのは、中盤からとめどなく広がっていく「血の海」に対する不快感か。

それとも「人間の本質の深淵」に引きずり込まれ、否応なしに、各々の「本質」と対峙させられたことに対する不快感か。

それともその両方か。

それとも…もしや…監督は、こういった観客の反応を、映画の「真のエンドロール」としたのではなかろうか。
そんな深読みをせずにはいられない、非情に興味深い2時間9分であった。