伊藤英明 主演作。
2012年11月10日 公開。
上映後まもなく、観客席が、ざわめきどよむ映画を久しぶりに観た。
賛否両論。侃々諤々。多くは否定的。
でも私個人的には痛快のこころ。
■人間の本質を象徴する蓮見
殺戮シーンは、その行為自体が惨たらしいものであるからして、人によっては当然、吐き気をもよおし、不快感を覚えるであろう。
しかしながらどうであろう。「殺戮」を、人間が持つ「本質」「性(さが)」と捉えたならば、その感覚は一変する。
人間は、理性と道徳を抑止力に、人命尊重を重んじ、人道主義を騙っているが、一皮むけば、結局のところ、「捕食者」だ。誰しも毎日、何らかの「命」を犠牲に、自らの命を繋いでいる。命の尊さを説く人間であれ、だ。
つまり、殺戮は、捕食者たる人間にとって、「快楽を満たす行為」以前に、「生存行為」そのものなのだ。そこに意味も主張もない。ただ、生きるために、殺す。
更に言及すれば、捕食者たる人間は、己の非力さを、武器や兵器によって補完することで、地球上のあらゆる捕食者の頂点に立とうとする、極めて身勝手で自己中心的で、残忍で非道な生き物であるに他ならない。
であるならば、「生存行為としての殺戮」と「自己中心的思想」という、人間の「性」を隠ぺいすることなく、寧ろ、「我が意のまま」に世界を操り、己が「殺戮の欲動」を爆発させる蓮見の姿は、人道主義をまとう前の、「裸」のままの、「人間本来の姿」と言えるのではなかろうか。
裸のまま。それは正に、蓮見が唯一、「本来の自分」でいられる「聖域」で過ごしていた姿、そのものである。
■憧憬の対象としての蓮見
蓮見ほどではないにしろ、人間は誰しも、社会規範から逸脱するような、後ろ暗い「闇」を内包している。多くは、その闇を押し殺して生きる訳だが、蓮見の場合、模範的で良識的で、好感度抜群の好青年「ハスミン」を隠れ蓑に、己の本能を解放し、本能の赴くままに生を謳歌している。
「闇」に抑圧を強いることを自明の理とする多くの人間は、蓮見の、己に正直な生き方に、ある種の突き抜けた爽快感を感じるのではなかろうか。だからだろうか。解き放たれ、自由に羽ばたく蓮見を見ていると、思わず「その物陰に生徒が!」と、蓮見に加勢したくなってしまう。
そんな、己の本能を解放した蓮見の瞳の、なんと穢れなきことか。澄んだことか。無垢でピュアで無邪気なことか。しかしながら、その「無邪気」な瞳に映るは、獲物であり、血の海であり、鮮血に染まる両の手、という「陰惨の極みたる世界」である。
残忍で不気味ながら、その一方で、艶めかしい美しさと、一種のヒーロー然としたオーラを放ち、観客の目を惹きつけてやまないところ、蓮見役の伊藤英明氏の演技は凄い。
■観客を「正と邪」「善と悪」のカオスへと誘う蓮見
獲物を見定める姿は、まさに鴉そのもの |
これに関しては、監督および出演者が的確な助言をしてくれている。その一つを此処に挙げる。
人はどうあるべきかとか、サイコパスと普通の境界線はどこかとか、いろいろ深く考え始めると、むしろ良くない方向に向かっていっちゃうと思うんです。この映画の根本は、やはりエンターテインメントですから。観たあとに訳のわからない感情がわき上がってきて、なぜか笑いながらみんなで話せてしまう。そういうカオスな状態を純粋に楽しんでしまうのが、この作品との正しい向きあい方なんじゃないかと思います。(『悪の教典』パンフレットより山田孝之氏のコメント)
サスマタで生徒のパンティをナイスキャッチ。 パンティの残り香で生徒を識別。 抱腹絶倒、必見のワンシーン。 山田孝之氏の絶妙なる演技に「清くない(笑)一票」を! |
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上映後、周囲の観客の方々が、口々に不快感を露わにしていたのは、中盤からとめどなく広がっていく「血の海」に対する不快感か。
それとも「人間の本質の深淵」に引きずり込まれ、否応なしに、各々の「本質」と対峙させられたことに対する不快感か。
それともその両方か。
それとも…もしや…監督は、こういった観客の反応を、映画の「真のエンドロール」としたのではなかろうか。
そんな深読みをせずにはいられない、非情に興味深い2時間9分であった。