2012年8月29日水曜日

『トータル・リコール』鑑賞。




Colin Farrell主演作。
原題;Total Recall
2012年8月2日 アメリカ公開。
2012年8月10日 日本公開。


リメイクに非ず。
オリジナルと心得て鑑賞すべし。




【あらすじ】
容易に記憶を金で手に入れることができるようになった近未来、人類は世界規模の戦争後にブリテン連邦とコロニーの二つの地域で生活していた。ある日、工場で働くダグラス(コリン・ファレル)は、記憶を買うために人工記憶センター「リコール」社に出向く。ところが彼はいきなり連邦警察官から攻撃されてしまう。そして自分の知り得なかった戦闘能力に気付き、戸惑いながらも家に帰ると妻のローリー(ケイト・ベッキンセイル)が襲ってきて……。
(CINEMA TODAYより)


生まれて初めて、自ら進んで観に行った映画。その2012年版。
嗚呼、公開の日をどれほど心待ちにしていたことか。

本来の記憶を削除され、偽りの記憶を移植された主人公。その「計画」は国家レベルで周到に隠ぺいされ、主人公は、知る由もない。

骨子は1990年作の『トータル・リコール』と同様だが、その「骨組み」に対する「肉付け」は1990年作とは全く異なる。主人公を演ずるColin Farrellも語っているように、主人公は、突然降って湧いてきた「己の真実」を、1990年版の主人公のように、いとも容易く受け入れる事などできず、真実に惑い苦しむのだ。つまりは「苦悶を標準装備した主人公」なのである。これこそ「人間」というものだろう。実存性を備えた人物描写。1990年版との大きな差異の一つである。

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夢も希望も抱けない、しがない毎日に「一抹の不満」を抱きながらも、それを飲み下し、日々をやり過ごす主人公Doug。唯一の楽しみといえば、場末の酒場であおる、安くてまずいビール。

「生きるために、生きる」

そんな主人公に、我が身を重ねずにはいられなかった御方、いらっしゃいませんでしょうか?かくいうアタクシなぞ、Dougとのシンクロ率、驚異の400%。深く痛く共鳴共感。上映後、自らの人生の虚しさについて、沼の奥深くまで内省せずにはいられませんでした。「SFアクション」と軽~い気持ちで、ご覧になっちゃぁいけませんぜ。「今を生きる」自分は果たして、己の「真実」に従って生きているのか、それとも「虚像」が「真実」であると「洗脳」されて生きているのか。そんな哲学的思索も呼び起こす映画、それが本作なのです。

閑話休題。
そんな、「世の中の末端」に埋もれて生きる主人公が、ちょっとした出来心で、新たな記憶を移植してくれるリコール社を訪れる。

「書き加える記憶は架空のものに限り、実体験に基づいた記憶の使用は禁止する」

それがリコール社の規約。

毎夜うなされる悪夢の中で「凄腕のスパイ」として活躍する自らを重ねるように、「スパイの記憶」の移植を注文する主人公。
ところがここで、思わぬアクシデントが発生。主人公の望んだ「記憶」は「架空」ではなく「実体験」であることが判明。かてて加えて連邦警察官が大挙。主人公を逮捕するというのである。
「皆サン、勘違イデスヨ~。僕ハ只ノ一市民デスヨ~」と必死の説得を試みるも、容赦ない攻撃を仕掛ける連邦警察官。ただただうろたえる主人公。万事休す。ところがどっこい安藤明義。多勢に無勢、絶体絶命の状況の中、突如、別人格が乗り移ったかのように、警察を一網打尽にしてしまう主人公。その「必殺」ぶりたるや『バイオハザード』の神こと鈴木史郎氏(元TBSアナウンサー)レベル。そりゃ警察も瞬殺だわ。


『MAXIM 』2012年 175号
その後のColinの演技が実に見事で。
戦闘中は、冷酷で無慈悲な光彩を放っていた瞳が、惨状を目の当たりにするや否や、動揺の色に濡れ、冷たい雨に濡れそぼった仔犬のように、怯え、震えるのだ。その無防備な瞳に、一瞬にして、ときめいてもうた乙女心。

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「しがない労働者Doug」としての記憶、そして人格。一方で「敏腕諜報員Hauser」としての記憶、そして人格。己の「真実」を「あたり前田のクラッカー」に受け入れた1990年版とは異なり、遺伝子レベルで記憶された「高い戦闘能力」で、敵との激しい攻防を繰り広げながらも、「Doug」と「Hauser」との狭間で、たえず揺れ動く主人公の機微を、Colinは真実味を持たせて演じている。

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本来の自分を、政治的策略によって矯正された主人公。その「真実」を知る由はなくとも、深層では「本来の自分」と「現実の自分」のズレに違和感を抱いている。しかしながら、日々の「ノルマ」を黙々とこなすことで、その違和感から目を背け、平静を装おうとする。だが「真実」は否応なしに、主人公の人生を流転させていく。

そんな主人公の内面の描き方に、既「視」感と、既「嗜」感を感じていたら、やはり。
脚本・原案は『リベリオン』のKurt Wimmerでした。

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『MAXIM』より
諦念、無軌道、退廃、刹那、享楽的。そんな世界観を象徴する、混沌として猥雑な『コロニー』。対して、「富」を具現化したような「完成された美しさ」と、「権力の無慈悲さ」を表象するかような「無機質な輝き」を放つ『ブリテン連邦』。 対照的な二つの世界ながら、そのどちらにも、隅々まで「洗練された美意識の血」が通っているところなど、いかにも『アンダー・ワールド』のLen Wiseman監督らしい美的センス。

また、おそらく否、間違いなく、CGIを多用しているのであろうが、実写との境目が判別不可能なほどのクオリティ。2012年には有り得ない世界を、CGIを活用しながら、現実味と臨場感を持たせて描いている点も素晴らしい。

あっと息をのんだのが、冒頭の主人公の格闘シーン。全周囲からの撮影。まるでマルチアングルのシューティングゲームを観ているかのよう。ありそうでなかったカメラワークだ。

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『MAXIM』より
が、引っ掛かる点もいくつか。

美術、撮影、編集など、練りに練って、凝りに凝って作られた作品なのだろう。全編を通して、非常に安定感がある。 だが、その安定感が、個人的には「本作のアダ」になっているように思われる。

「ハラハラ」「ドキドキ」「ワクワク」といった「心の高揚感を形容する擬音」が、この映画を観ている最中、私の心中に湧いて来なかったのだ。私個人としては、その「絶対的安定感」を基盤に、「頑強そうな四本脚の椅子に座ってみたら、実は脚の一本が折れてまして、大怪我しましてん」くらいの「予測不可能性」と「不安定性」をカンフル剤として加えて欲しかった。

また、個人的に肩透かしだったのが「ラスボス」。世界を我が手中に統治せしめんとする「権力欲」を誇示しながら、それに匹敵するだけの「オーラ」を個人的には感じられなかった次第。周囲を瞬時にして威圧するような、圧倒的なオーラを魅せてほしかった。

また、これはまぁ本当に「どうでも宜しくってよ」レベルの不満なのだが、終始、長髪を束ねず、ハードなアクションをなさるLoriもといLate Beckinsaleお姐さま。彼女の「凍るような美しさ」を際立たせるための演出なのだろうが、どうにも違和感。

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Lori(左)とMelinaのアクションシーン
映画ラスト、主人公を満面の笑みで抱きしめ、笑い声をもらす、主人公の相棒にして恋人のMelina。その不敵な笑い声に、不穏な予感を禁じ得ず。これは、制作陣の「続編への意欲」を暗示しているのだろうか。

脚本のクオリティ如何では続編も観てみたいが、その際は、抗いがたき過去に苦悩し、もがきながらも、懸命に過去と向き合おうとする主人公の心の機微を、丹念に掘り下げてほしい。無論、ゴッド鈴木(注:鈴木史郎氏)なアクションもお忘れなきよう。

何はともあれ、Colin Farrellがお好きな方は是非。キュゥンとくる格好良さです。