2012年6月29日金曜日

『デクスター/DEXTER』 カタルシスと哲学。




先日UPした『ただいま視聴中の海外ドラマ』一覧で
「デクさんが赤ちゃんに見えてきちゃう今日この頃。」と書いたのですが

そもそも何故にそう思うのか、その考察を兼ねつつ
『デクスター』の魅力について、あらためて考えてみました。


その① カタルシス

主人公Dexterは、幼少期に負った壮絶なトラウマにより、常に殺戮の衝動に駆られている。義父は「英才教育」により、Dexterの衝動の矛先を「法の裁きを受けぬ非道な殺人鬼」に向けさせる。Dexterは次々と、極悪人に死の制裁を下していく。日頃、何らかの「外圧」によって、鬱屈した思いや、抑圧された感情を抱えている人間は、Dexterの行為にカタルシスを覚え、爽快感と解放感を手にするに相違ない。(日本時代劇の名作『必殺シリーズ』のカタルシスと類似していると個人的に思う次第。『必殺』に夢中になった人ならば、このドラマにも酔いしれるはず)

その② 人間の根本原理の追究

幼少期のトラウマにより、人間としての根本原理が完全に欠落しているDexter。義父によって道徳、倫理、良識ある行動を「入力」されたはものの、Dexterには喜怒哀楽といった感情がなく、人型を模した「心」のない自律型ロボットに等しかった。そんなDexterが、人々との出会いと別れ、死別を通じて、「人間とは何か」「心とは、感情とは何か」を学習し、吸収していく。回を追うごとに「人間としての心」が芽生えていくDexter。ドラマの端々で、学びの過程にある彼の「内なる声」が語られる。その一言一句は、人生の真意を言い当てた格言のようで、都度ハッとさせられる。ドラマとしての娯楽性も抜かりない上に、哲学的示唆に富んだドラマは、他に類を見ないと思う。ヘタな自己啓発本を読むくらいなら、『DEXTER』を観よと強くオススメしたい。

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シリーズを追うごとに「Dexterが赤ちゃんのように見えて来てならない」とは以前に書いた通りだが、こうして再考してみると、喜怒哀楽を理解し、人を信じること、人を愛すること、そして、大切な人のために自分を犠牲にすることを学び、成長していくDexterは、まさに「心を持つ人間」として『ReBORN』の過程にあり、だからこそ、彼の表情に、生後まもない「赤子」のような側面が垣間見えるのかもしれないと考える。