2014年5月1日木曜日

『メイジーの瞳』鑑賞。




Julianne Moore、Alexander Skarsgård、Onata Aprile出演作。
原題;What Maisie Knew
2013年5月3日 アメリカ公開。
2014年1月31日 日本公開。


一生涯、大切にしたい映画。




【あらすじ】
母スザンナ(ジュリアン・ムーア)と父ビール(スティーヴ・クーガン)が離婚し、共同親権を持つ両親の家を行き来することになった6歳の少女メイジー(オナタ・アプリール)。ロックスターであるスザンナは、再婚相手の青年リンカーン(アレクサンダー・スカルスガルド)に子育てを押し付けていた。メイジーは優しいリンカーンと心を通わせ始めるが、スザンナはそんな状況にいらついてしまい……。
(CINEMA TODAYより)


澄み切った愛が全身を抱き締めてくれる映画。
鑑賞後も、映画から伝わってきた温もりが心を優しく愛撫し、柔らかな愛情に全身が包まれた。
劇場でご覧になれなかった方、DVD化の暁には、是非ともご覧いただきたい。

***

メイジーの両親は、メイジーの穢れのない美しい心と愛を溺愛する。その一方、両親の瞳には、恐怖心がよぎっている。それは恐らく、メイジーに自らの全てを見透かされていると感じているからに相違ない。

メイジーの瞳は、大人たちの欺瞞、嘘、建前、その場しのぎの言い訳、ご都合主義を、残らずすべて見抜いている。だがメイジーは、そんな身勝手な大人たちを、糾弾もしなければ断罪もしない。ただただ彼らを見守り、見返りを求めぬ愛で彼らを包み込み続けるのだ。そんなメイジーの姿に大人たちは、否応なしに自らの未熟で愚かで浅はかな部分を突きつけられる。だからこそ、両親の瞳には、メイジーへの愛と同時に、畏怖にも近い感情が混在するのであろう。

そんな両親の心を占めるのが「メイジーに与える愛」ではなく「メイジーから与えられる愛と許しへの渇望」となるのは、ある種の必然やもしれぬ。対しリンカーンらは、メイジーに何かを求めたりはしない。ただ真っすぐに混じり気のない愛情で彼女を包み、そしてメイジーが放つ愛を大切に慈しむ。メイジーがリンカーンらに心を開き、その身を委ねていくのも当然の事であろう。

しかしながら、ここで特筆すべきなのは、メイジーは自らの居場所をリンカーンらに見出しながらも、実の両親を斬り捨てた訳ではない事にある。自らの独占欲がため、永らくメイジーの人生を翻弄してきた両親の全てを、メイジーはしっかりと見届けた上で、自らの愚かさに気付いた両親を、その小さな身体で抱きしめるのだ。メイジーの、か細い小さな身体にいだかれた大人たちは、まるで無防備な幼い子供のように、心を裸にし、身体を震わせて泣き崩れる。

メイジーは、彼女を取り巻く大人たちに比べて遥かに小さいが、誰よりも“大きい”のである。

だが、複雑な環境下がゆえに早熟せざるを得なかった子供のように、物事を理詰めに捉えるのではなく、あくまでも穢れのない真っすぐな心で、人々を見つめ、そして愛する人すべての幸福を願っているのが、メイジーをメイジーたらしめている所以であろう。

そんなメイジーは、周囲の人々に、少なからず影響を及ぼす。恐らく常に受け身で、他人に流されるままの人生だったのであろうリンカーンは、メイジーと触れあう事で、生きることに対して能動的になり、そして自らの意思で積極的にメイジーを守る人間へと変化する。

触れあう人々に「永久の愛」と「救済」と「目覚め」をもたらすメイジー。恐らく私は、生涯にわたって彼女の瞳を忘れられぬであろう。