2012年6月21日木曜日

『愛と誠』鑑賞。




妻夫木聡 主演作。
2012年6月16日 公開。

評価がハッキリと分かれる映画なのだろう。


NGワードは「月光仮面」の太賀誠さん。
口にしたら最期。命はないものと思って下さい。


監督は、コテコテもバイオレンスもお得意の三池崇史氏。舞台は1970年代初頭。主演のお二人は当代きっての好感度俳優。という事で私が期待していたのは、「ギャップ」の妙であった。

いわば「ザ・昭和」まっ盛りの時代に、「平成」を象徴するお二人を放り込むという「ギャップ」

言いかえれば、『爽やかに、健やかに、美しく』を絵に描いたような、清潔感に溢れる、「平成」を具現化したお二人に、その雰囲気には、およそ似つかわしくない、むさくるしく、汗くさく、エネルギーに満ち満ちた、いかにも「昭和」な演技をさせるという「ギャップ」

だが、私の期待していた「ギャップ」を、この映画に見つけることは出来なかった。

冒頭の、極彩色テイスト。
俳優陣に対する演出は、期待していたほど、昭和臭のキツい、バタ臭いものではなった。ほどほどに「昭和」、ベースはあくまで「平成」といった感じだろうか。

そして「ザ・昭和」を演出するに欠かせない、美術や撮影、照明にも、「昭和」の匂いが、さほど感じられなかった。

「平成の人間」に、いかにも「昭和」と感じさせるには、デフォルメが必要だ。昭和を描いて大ヒットした『ALWAYS三丁目の夕日』は、当時の実際の風景に、意図的に「レトロ感」を着色している。『愛と誠』で描かれる、ブルジョワであったり、荒れた高校であったり、場末の酒場であったり、すさんだ繁華街も、当時の雰囲気なり佇まいを誇張して描くべきだったのではないか。花園実業高校の外装の描写には、コテコテとした過剰さが見受けられて、「いかにも昭和」な雰囲気を楽しめたが、それ以外の場面は、それほどではなかった。

ゆえに、「昭和の真っただ中」に放り込まれた「平成の人間」が、「昭和の人間」になり切ることによって起きる「違和感」という「ギャップ」の妙が半減してしまったように思われる。


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誠さんにすべてを捧げる早乙女愛さん。
髪型が淀殿はいってます。
また『愛と誠』の世界観をミュージカルを交えて表現するとしたのなら、その表現方法を徹底的に突き詰めてほしかった

太賀誠への愛を、可憐に愛らしく、歌いあげる早乙女愛に、白けた眼差しを向ける太賀誠や、ミュージカル調に朗々と歌う両親に、戸惑いの表情を見せる早乙女愛。ここでの誠や愛は、相手の「心情」に白けたり、戸惑っているのだろう。しかしながら「ミュージカル」の球を「ストレートプレイ」で返させている、上記シーンの演出では、まるで、相手が「歌っている」ことに対して、白けたり、戸惑っているように見えてしまう。いやいや「このシーンはそもそも、「歌っている」こと、そのものに対して、白けたり、戸惑っているという演出なのですよ」というならば、なおのこと問題だ。ミュージカルを基盤にした場面における「登場人物の間での温度差」は、観客の集中力を妨げる誘因になりかねないからだ。

「ミュージカル」の場面では、登場人物全員に対する演出を「ミュージカル調」に統一し、登場人物は皆、その心情を、徹底して、歌に踊りに込める。無論、白けた気分も、戸惑う心地もだ。そしてその暑苦しい演技を、観客は唖然として鑑賞する。映画と観客の、この「温度差」こそがケミストリーを生み出し、面白さを倍増させるのではなかろうか。

登場人物全員が一丸となって、ミュージカルの世界観を創り上げている、冒頭の「太賀誠の決闘シーン」や、終盤の「ガムコ、普通の女の子になります」のシーンこそ楽しめたが、それ以外のシーンは、以上に挙げたとおり、ミュージカル調に仕立てた意義が余りなかったと、個人的には思う。

また、歌唱法については、いかにもミュージカル然とした、音吐朗々な歌唱法にした方が、俳優の外面との「ギャップ」が生じて、面白みが増したと思われる。


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ただ、脚本のところどころに挿し込まれた「昭和の名文句」には爆笑。岩清水くんの「メガネは、顔の、一部なんです。」は恐らく、東京メガネのCMがモチーフだろうし、ガムコの「普通の女の子に戻ります。」は、キャンディーズの解散宣言を元にしているのだろう。必死に声を押し殺して(なにせ映画館ですので)笑わずにはいられなかった。ここは宅間孝行氏の脚本に「一本」。


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岩清水弘です。本名は「メガネ」です。
「ミュージカル」。ときどき「シリアスドラマ」。ときどき「センチメンタルドラマ」。ときどき「昼ドラ風味の愛憎劇」。

本作の流れに「よどみ」を覚えたのは、こういった様々な要素が詰め込まれているからではなく、それらが、今一つ振り切れていないこと、そして、それらに、一貫性が感じられなかったことが理由に挙げられると思う。

ほどほどに暑苦しく、ときどき爽やかになる演出。

原作を踏襲して、映画でも「熱血で型破りでドロ臭い雰囲気」を貫くべきだったと思う。


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本作で私が最もお気に入りの、ガムコさん。
本作で「ギャップ」を感じたと言えば、主題歌とエンディングテーマ。爽やかで透明感のある歌声の歌手ではなく、熱い血のたぎる、たとえば水木一郎氏であったり、串田アキラ氏であったり、それこそ本作にも出演していて、ミュージカル界の大御所でもある市村正親氏に歌ってもらえたら、作品のテイストとマッチしたのではないかと個人的には思った。

本筋とは全く関係がないが、際立って「ギャップ」を感じたのが、釣り堀のシーン。向こう側に駅のホームが見えるのだが、電車を待っている人々が、平成の出で立ちで、しかも片手にはスマホかケイタイでも持っているように見えたのだ。私の見間違いでなければ、このシーンには「昭和」の真横に「平成」が存在している。CGを使えば、簡単に削除できるにも関わらず。

だとしたら、これは意図的なモノなのだろうか。「この映画は、昭和を再現したパロディ映画なのですよ」というメタファーが組み込まれているのか、どうなのか…鑑賞中、もう気になって、しようがなかった。


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俳優陣は健闘してらっしゃる。終盤、線路内で「死にたい」と泣きわめく母親を抱きすくめ、一緒に心中しようとする太賀誠の表情といったら。さすがは妻夫木さん。でも観終わった後の「達成感」を、私は本作から得ることができなかった。

一方で、終始、大声をあげて笑い転げてらっしゃる方もいらしたし、上映後、ずっと「岩清水、岩清水、岩清水・・・」と呟きながら、グッズ売り場に一目散に駆け込む方もいらしたので、ハマる方はハマる映画なのだろう。

私の場合は、自宅のTVで、ビールとスルメ片手にホロ酔いで、そして時々巻き戻して、お気に入りのシーンを繰り返したりと、独りで楽しんだら、この映画の醍醐味を理解できたのかもしれない。