Isabelle Huppert、Anamaria Vartolomei出演作。
原題;My Little Princess
2011年6月29日 フランス公開。
2014年5月10日 日本公開。
2011年のコチラの記事で紹介してから、はや3年弱。
公開を楽しみにしていた『My Little Princess』が『ヴィオレッタ』として、やっと日本でも公開された。
だが些か期待が高まり過ぎてしまったようだ。当時、賛否両論されたことの頷ける内容だった。
【あらすじ】
写真家のアンナ(イザベル・ユペール)を母に持つヴィオレッタ(アナマリア・ヴァルトロメイ)は、母が多忙のため、祖母と一緒にいる機会が多かった。ある日、母にモデルになるよう誘われたヴィオレッタ。母に気に入られたいヴィオレッタは要求に応え、カメラに向かい大胆なポーズを取るように。そして、衣装とメイクで大人の色香をまとい……。
(CINEMA TODAYより)
急速に過激さを増していく母の要求(裸体、性器の露出)に嫌悪感を募らせながらも、それでもなお、ヴィオレッタが応え続けるのは、母の愛に飢え、母の愛を乞い願う子供だからだ。周囲から蔑まれながらも母の力になりたいと思う、健気な子ども心は、当然、ヴィオレッタ自身の「ミューズとしての自負」に勝る。
母の言うがまま、なすがままにされるうち、どんどんと内側から壊れ、自我がはがれ落ちていくヴィオレッタ。退廃していく内面に呼応し、デカダンな美しさを高めていくヴィオレッタを前にして、写真家としての情欲を高めていくアンナ。痛ましすぎる。
映画終盤、アンナは「実父に犯され、ヴィオレッタを身ごもった」と告白する。被虐待者が虐待者となることで、何とか自らを慰めようとするように、アンナもまた、カメラを用いてヴィオレッタを陵辱し続けることで、自らの傷を癒そうとしていた…と見るのは早計か。観ていて、肌がザワザワとする違和感を覚えたのは久し振りだった。
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だが、期待に反し、脚本の屋台骨は心もとなく、台詞の掛け合いは、ボタンをかけ違えたかのようにチグハグで、場面にそぐわない選曲に耳をなぶられた。こうした、一連の不協和音が、母の陵辱(エヴァ・イオネスコは、母イリナ・イオネスコを相手取り、幼児期のヌード写真の撮影および出版について、損害賠償と写真返却を求める裁判を起こし、勝訴している。【Wikipediaより】)によって心を蝕まれ、内面が散り散りになったヴィオレッタ、もといエヴァ自身を表現するための意図的行為であったならば…あっぱれ成功である。
本作品の見どころと言ったら、アンナが自らの最高傑作と心酔してしまう娘ヴィオレッタの魅力を、危ういまでの美しさを持って観客に納得させたAnamaria Vartolomei(アナマリア・ヴァルトロメイ)を発掘したこと、そして、熟れていく肉体に抗い、いつまでも天衣無縫なままであり続けるアンナを体現したIsabelle Huppert(イザベル・ユペール)だろうか。
個性的な美貌が魅力であったエヴァ自身を、正統派美少女に置き換えたことや、その美少女の肉体を通して、今一度、母イリナ・イオネスコと向き合い、胸の内をいくばくではあれ、ぶちまけたエヴァ・イオネスコの行為は、癒えぬ傷を「思い出」として美化し、何とか立ち直ろうとするリハビリのように思えた。
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未熟な肉体が、熟した色気をもてあそぶ、少女から女性への過渡期。その「一瞬の美」を切り取り続けたイリナ・イオネスコの写真に秘められた、胸のうだる物語。
芸術作品と、それが生み出される過程は、たとえ、その過程がどんなに残酷で残忍であろうとも、切り離して考えるべきなのだろうが、ここまで赤裸々に心情を吐露されてしまうと、もはや、まっさらな目でイリナ・イオネスコの写真を鑑賞することは難しい。
もしかしたら…エヴァ・イオネスコは、この作品を世に放つことで、リハビリと同時に、復讐を目論んだのではないか。そうかんぐってしまった。
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最後に、雑誌『polka』に掲載された、Anamaria Vartolomeiの写真をどうぞ。
撮影はDerek Hudson氏。
『pokka』のHPでは、メイキングビデオも見られます。(コチラからどうぞ。)