2014年7月8日火曜日

『トランセンデンス』鑑賞。




Johnny Depp主演作。
原題;Transcendence
2014年4月18日 アメリカ公開。
2014年6月28日 日本公開。


もっと、こうグッと来るものを予想していたのだが…うーんうーん。。






【あらすじ】
人工知能PINNの開発研究に没頭するも、反テクノロジーを叫ぶ過激派グループRIFTに銃撃されて命を落としてしまった科学者ウィル(ジョニー・デップ)。だが、妻エヴリン(レベッカ・ホール)の手によって彼の頭脳と意識は、死の間際にPINNへとアップロードされていた。ウィルと融合したPINNは超高速の処理能力を見せ始め、軍事機密、金融、政治、個人情報など、ありとあらゆるデータを手に入れていくようになる。やがて、その進化は人類の想像を超えるレベルにまで達してしまう。
(CINEMA TODAYより)


この映画を端的に言えば、こうだ。
死を宣告された天才科学者ウィルの脳が、同じく天才科学者である妻エヴリンによって、スーパーコンピュータにインストールされる。肉体的には死亡したウィルだが、その天才的頭脳はコンピューターと融合することによって、驚異的に知能を高める。地球の独裁者になるかと恐れられるウィル。だが実際は、地球の脅威どころか、荒廃しつつある地球に明るい未来をもたらしてくれる希望であり救世主であり、そして、たとえどのような姿になろうとも、愛する妻を見守り、愛する妻の幸せを願い続ける、生前と変わらぬ夫であったのだ。空気となり、雨となり、大地となり、海となり、妻の願った地球の未来を育み続けるウィル。その深い愛は未来永劫に続いて行くのであった… 

とくれば、自然、涙腺も緩む感動作のはずなのだが…。
実用化も決して夢物語ではない、最先端科学というデジタル世界を背景にすることで、その対極をなす、アナログな世界、つまり普遍的なる人間の愛が際立ち、心震えたはずなのだが…。

涙がつっかえて出てこないのである。

それは、この映画が、愛の物語にプラスアルファ、サイコホラーの要素を取り入れたからである。
百歩譲って、サイコホラー色も加味したいのであれば、ウィルの頭脳は、少なくともアメリカ全土に多大なる影響を及ぼしていると明示しなければ説得力がない。だが実際、ウィルの頭脳が変化をもたらしたのは、さびれた片田舎だけである。そして、それほどまでに恐れられる頭脳に立ち向かうのは、FBIの職員とごく少数のアメリカ軍、 アンチテクノロジーを唱える過激派テロ集団、そしてウィルの元同僚2名だけなのである。サイコホラー色を出すには、中途半端なのだ。

加えて、映画終盤まで、ウィルの純粋な思い(地球を救いたいと言う妻の望みを叶え、未来永劫、妻を守り愛し続けたいと願う心)は明示されないため、中途半端なサイコホラー感が続いてしまう。

結局のところ観客は、壮大な愛の物語で心を揺さぶられる訳でもなければ、サイコホラーに震え上がる訳でもなく、どっちつかずのまま、席を立つことになるのである。 

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たとえば…ウィルの本心を観客には明らかにした上で、人智を超えたウィルの強大な能力を前にして、研究の良きパートナーであった親友、そして最愛の妻までもが疑心暗鬼になり、恐怖心を募らせ、刃を向けるというストーリーであれば… どんなに蔑まれ、罵られ、恐れられようとも、揺らぐことのないウィルの愛が、観客の心を強く深く掴んだろうし、未知なるものに恐怖心を抱き、共存共栄よりも、排他を選ぶ、人間の“さが”も描けたのではないか。

***

一度は死にながらも、サイバー空間で再生した天才科学者を演じたジョニー・デップや、研究パートナー役のモーガン・フリーマン、親友にして同僚科学者役のポール・ベタニー、ウィルを追うFBI捜査官役のキリアン・マーフィー、そして夫を愛する余り、死者の再生という一線を超えてしまったのち、愛するがゆえに不信感を募らせていく妻役にレベッカ・ホールと、とにかく役者は凄い。

凄いにも関わらず、観終えた後に心に残ったのは、夫婦の愛の物語でも、人工知能の可能性および脅威でもなく、あまりにも贅沢な使い方になってしまったキリアン・マーフィーが、中盤から往年のドラマ『西部警察』の大門のようなサングラスを掛けていたこと、最悪、大門と入れ替わっても、ストーリーに影響しないだろうと考えずにはいられなかったこと、そして劇中、集団で全力疾走する人民が『ターミネーター2』の液体金属アンドロイド・T-1000に見えてしまったことなのである。残念すぎる。 

ただ、映画の出来不出来は別として、映画の着眼点には、心を激しく揺さぶられた。もし、自分が、愛する人との永遠の別離に直面したとして、その死を受け入れられる状態でなければ、そして死者を再生させる手段を持っていたならば…たとえヒトの道に外れると分かっていたとしても、迷うことなく、その手段を講じるのではないか。エヴリンと同じように。そして愛する人は、人工知能となり、ヒトとしてのごく自然な営み(五感を使った触れあい)を剥奪されたとしても、その苦しみを胸に封じ込め、遺された者のため、コンピューターの中で生き続けてくれるのではないか。そう思うと、胸が張り裂けそうで、上映後の帰り道、目頭から溢れだす涙を抑え込むのに必死だった。 

映画の着想は、今そこにある未来で、演者も達者で、人工知能の世界観の視覚化も中々だった。それだけに、映画の構成の不整合が残念でならない。